鞆の浦の危機 |
広島県の鞆の浦(とものうら)をふたたびおとずれた。
全国を旅していて、二度三度訪れたいと思うところはそうザラにはあるものではない。
しかし、今回は広島の竹原とここ鞆の浦は躊躇(ちゅうちょ)することなく二度目の訪問となった。
とくに鞆の浦は、前回おとずれたとき、港を埋め立てて橋をかける計画が持ち上がっていたので、その後注目していた。
埋め立て工事が始まっていなかったので、ひと安心した。
しかし、国家権力というものはそこに住んでいるひとの意思を踏みにじってでも強権を発動するものであることは歴史の示すところである。
たとへば、熊本県の蜂の巣城の名で有名になった下筌(しもうけ)ダム、川辺川ダム、秋田の八郎潟の干拓、長崎の諫早湾の埋め立てなど、その例は数えきれない。
これらは、「失敗百選」に堂々の入賞を果たしている。
各省は、予算をいかに多くぶん取るかにだけ腐心し、その獲得した予算をいかにして消化してしまうかに力を尽くす。
また、これらがいかに世論の非難を浴びようともこれを強行する理由は、不必要な事業をはじめたという失敗を認めたくないため、つまりメンツのためである。
そこで、住民の意思を無視し、さらには封じ込めてつぎからつぎに既成事実として積み重ねていく。
莫大な国家予算を計上するのだから国はつくるための大義名分をかかげるが、その錦の御旗ともいうべきその大義でさえ「食糧増産」から「災害予防」などへと臆面もなく変えていくから始末がわるい。
こういう社会的経済的必要があるためにやるといっておきながら、その必要性に説得力がないとわかると、つぎの必要性をさがしてくるのだから順序がまるで逆だ。
是が非でも一旦動き出したらやめようともしないのも、裏で利権が絡んでいるからである。
したがって、事業をはじめ、それを継続することこそ本来の目的なのだといわれてもしかたがないだろう。
これら大型の公共事業というものは、官製主導の談合の温床にもなっていることは今回摘発された国交省の開発局長の例をあげるまでもなく、枚挙にいとまがない。
これらの事業では、甘い需要予測などはいつものことで、事業をつくるためにかかる費用とその結果得られる効果の比較という視点はまったく考慮されない。
官が主導して談合をさせ、天下りを受け入れた業者にあらかじめ高く設定した価格で落札させ、あとで二者で利益をわけあう構図なのである。
結果的に税金を食い物にするのだから被害者は国民であるのだが、国民はその都度直接金をとられたりしないので自分たちが被害者であることの意識がどうしてもわかない。
これらの構図は、地方自治でもなんら変わりはない。
私腹を肥やすのは役人と、これらの利権に群がる業者たちである。
さて現在、鞆の浦を開発する案は、鞆の浦を埋め立て、そこに橋をかけるという案と、裏側の山にトンネルを掘るというふたつの案のようである。
その工期と建設費は、トンネルを掘る案のほうが工期が短くてそのうえ建設費も安くて済むらしい。
しかし、市は自分たちにうまみのある建設費が高くつく海を埋め立て、そこに橋をかける案を推進したいようである。
しかし、この案では鞆の浦の景観は台無しになる。
もともと鞆の浦は、北前船(ぶね)が行き来した西廻り航路のさかんなころから瀬戸内海の潮待ち、風待ちの港として発展したところで、むかしながらの港の景観がよく保存されている。
すなわち、花崗岩の常夜灯、ガンギとよばれる階段用の船着場、石積みの防波堤、いまでいうドッグの役目をした焚き場跡、倉庫群などがそのままの形で残っている。
全国の港を巡ってみて、これだけ揃ったところはないといえよう。
それに、町並みのすばらしさである。
こんかいは道路が狭いことはわかっていたので、はなから歩いてまわった。
ところが、歩いてまわるぶんには道路のせまさはまったく感じない。
健康酒としてここに古くからある保命酒(ほめいしゅ)の老舗(しにせ)がならび、これも鞆の浦の特産であった舟釘をとりあつかった豪商の建物、船宿、西国大名の泊った本陣など江戸情緒をのこす町並みは、ひろい道路には似合わない。
道路には、おのずと居心地のいい広さというか、間合いというものがあるはずだ。
同じ瀬戸内海でかつて栄えた兵庫の室津(むろつ)は、当時のものはほとんど残っていない。
室津の轍(てつ)を踏んではならない。
ここで住民の何人かに意見をきいたが、開発に賛成する声はきかれなかったことがせめてもの救いだった。
開発という美名の破壊は、いつでも容易にできる。
しかし、いったん破壊されたものは元の姿に戻れないということだ。
火の元に細心の用心を払いながら先人たちが次の世代にと残しておいてくれた町並み、それが鞆の浦の景観にほかならない。
これをまた次の世代に引き継ぐことが、いま鞆の浦に住む住民の務(つと)めとして問われている。
たしかに権力者の横暴を許すのも住民だが、それ以上にそれを正すのもまた住民の責任である。
牛窓の町並み
ここは、岡山県の牛窓(うしまど)。
牛窓とは、変わった名前でいちど聞くと忘れないだろう。
牛窓は、瀬戸内海に面したふるくからの港町である。
さて、どのあたりにふるい町並みが残っているのだろう。
港から一歩家並みのあるところにむかったら、そこにふるい町並みがあった。
このあたりだろう。
カメラを取り出し、さて散策に出かけようとしたとき、青年から声をかけられた。
缶コーヒーを差し出し、「ぜひ、話を聞かせてください」という。
かれは牛窓の自宅に帰える途中、先を走っていたこちらのオートバイに追いついたという。
ナンバーを見ると他県ナンバーのオートバイであり、パニラケースをつけているので旅行者であることがすぐわかった。
はて、このオートバイどこに行くのだろうと考えながらバイクの後ろを走っていると、自分と同じ牛窓の方向に曲がったのでそのまま後ろを走ってきたという。
かれは丸山さんといい、ヤマハのオフロード車・セロー225をもっており、何年か前に北海道をそれに乗って走ったという。
こちらが北海道の地図を見せると、いろんなところを知っている。
こちらよりはるかに詳しく、とくに秘湯といわれる山のなかの温泉には、ほとんど行っているようだ。
久々に同好の士が登場して、今会ったばかりなのに前からの知り合いのようなふんいきにつつまれ、話は一気に盛りあがっていった。
かれから、この牛窓の歴史などをきく。
それによると、ここは「牛窓千軒」といわれた瀬戸内航路の要衝で、風待ち潮待の船でにぎわった歴史のある町らしい。
それに、ここは朝鮮通信使も立ち寄った港で、異国の文化がどこよりも早くかれらによってもたらされたという。
かれが、牛窓の町並みを案内するという。
両側に町並みのある通りが旧道で、海岸側にある道路は新しく海岸を埋め立ててつくられた新道である。
まず、このあたりが遊廓街だという。
ここは、牛窓のメーンストリートである「しおまち唐琴通り」である。
そこに、格式のある門構えの建物がある。
両側に、呉服屋、旅館など切妻づくり、二階建て、格子のあるむかしながらのふるい町並みがつづく。
なかには、木造三階建ての建物もある。
町並みを歩いていて、妻壁が杉の焼き板で覆われているのがこの町の特徴であると気づいた。
焼いた杉板は、潮さびにはめっぽう強いといわれる。
港町の家の外壁といえば板を貼ったものがふつうだが、下見板張りやこのような杉の板の表面を焼いたものが使われることもある。
さらに、屋根が本瓦葺きであるのが目につく。
本瓦葺きは、ふつうの桟瓦葺とくらべて瓦の量だけでも3倍ほど多くなり、それだけ手間もかかるので建築費がかさむことになる。
それが葺かれているということは、それが当時流行(はやり)であったにせよ、それだけこの町が豊かであったことの証明でもある。
潮風が町並みの更新をうながしたのであろう、大正から明治にかけての町並みがつづく。
つぎに案内されたのは、赤い洋館であった。
これは、大正四年に建てられたという牛窓銀行本店の建物である。
外側にはレンガ質のタイルを張り、縦長の窓には外側にどろぼう除けの観音開き扉の鉄の扉がもうけられている。
内部は吹き抜けの天井で、かべは白しっくい塗り、その壁には上の窓を開けるためにせまい廊下がぐるり取りつけられている。
現在は、街角ミュゼ牛窓文化館となって、第二の奉仕をしている。
別れしなに、お互いメールアドレスの交換をした。
通りすがりの旅の者に、自分の住んでいる町を誇れるひとがいまどきどのくらいいるだろう。
おらが町を誇れるてくれるということは、人としてこの上ない喜びのひとつといえよう。
オートバイ日本一周