豊後竹田(たけた)の町並み |
岸壁にはバイクが何台も待っており、こちらと同じようにフェリーで降りてくる友だちを待っているらしい。
やがて、定刻になってフェリーが到着した。
フェリーから降りるのは、バイクが最後になる。
車が降り終わると、バイクが列をつくって降りてきた。
とにかく、その数はすさまじい。
東京、大阪方面から九州に乗り込んでくるのは、フェリーにかぎる。
というのも、フェリーに乗れば高速代もいらず、運転もしなくてよく、そのうえ寝てこれるので、明けの日は目いっぱい使えるからである。
それぞれが、待っている友をみつけて再会をよろこびあっていた。
やがて、青木さんが降りてきた。
かれは、こんかいはBMWのF650-GSできている。
かれと逢うのは、去年の秋の静岡以来である。
かれは、静岡から大阪のフェリーのりばまで高速を走ってきたが、平場になって低速になるとエンジンの調子がわるいという。
つまり、低速になるとエンストするらしい。
かれの予定を聞いたら別に予定はなく、「お任せします」とのことであったので、こんかいは九州の脊梁(せきりょう)の地域をたずね、未舗装の林道をふたつ越えることにした。
ここからR10を南下する。
ところが、ちょうどラッシュにかかって国道は渋滞していた。
犬飼でR10から右折して別れてR57に入ると、交通量はいっぺんに減ったので快適な走りになった。
道の駅「あさじ」で、休憩をとった。
ここには湘南ナンバーの車がとまっており、車の後ろにテーブルを出し、年配のふたりが朝食をとっていた。
こうやって、ふたりで車の旅行をつづけているのだろう。
これからめざす竹田(たけた)は、間もなくだ。
すぐに、竹田についた。
竹田の町は、レンコンの町といわれているように周囲を小高い山にかこまれた盆地で、他所にゆくためにトンネルが掘られている。
竹田は、滝廉太郎の名曲・「荒城の月」で有名である。
この曲は、かれが遊び場にしていた岡城でイメージしたといわれている。
岡城は、稲葉川と玉木川というふたつの川にかこまれており、これが堀の役目をしている。
このため天正14年(1588)島津藩から3万7千という大軍で攻められた際、わずか1千人で守りぬいた難攻不落の文字通りの名城である。
この城は、遠くからながめると牛が伏しているような格好をしているので臥牛(がぎゅう)城ともよばれ、市民に親しまれている。
竹田の町をあるくと、「歴史の道」が整備されていて、南画の大家・田能村竹田の生家、童謡「いぬのおまわりさん」の作詞家として知られる佐藤義美もここで生まれ育っており、その記念館も建っている。
とくに殿町の武家屋敷群は、建物こそのこっていないが、石垣の上の赤土の練塀は当時のままのこっていて郷愁をさそわれる。
ここの練塀は、赤土に石灰を入れてねったもので、下地、荒壁、中壁、仕上げと幾層にも塗られている。
この練塀のつらなる町並みも、日本の原風景のひとつであろう。
練塀の断面は、上にゆくほど広くなっていて、その上には瓦がふかれている。
ところどころ土壁が剥げ落ち、それがまた古風な風景となっている。
町中にはふるい造り酒屋や大きな構えの書店などむかしながらの建物がのこっていて、竹田がこのあたりの政治、経済、文化の中心地であったことを示していた。
一歩路地をあるくと、切妻づくり妻入り、正面が赤壁のたてものがあった。
入口が左右にあるところから、どうも銭湯のようにある。
いまは廃業しているが、そこの若旦那は「おばあちゃんの時代、風呂屋でした」と語った。
その路地の突き当たりは、「塩屋金物店」という迫力のある字で書かれた大きな看板のかかった荒物屋がみえた。
店一面に、商品が積まれている。
かれは、「あれは、テレビでやっている焼酎のいいちこのコマーシャルに出ている店です」と、教えてくれた。
お年寄りにあったので、この町の色町はどのあたりにありましたか? ときくと、かれは通りを指さして「あそこには遊廓がならんでいましたよ。そこは毎晩にぎわっていた」という。
そこは、「上町通り」である。
そこは、さきほどわたしたち三人でそれらしい造りの家だと話したばかりの建物があった通りであった。
これより県道8号を通って五ヶ瀬町にむかう。
竹田の町のトンネルをくぐってすぐに、河宇田湧水があった。
竹田の町は、九州の屋根といわれる祖母山をひかえており、そこに降った雨が地下にしみて伏流水となり、ふもとの竹田の町で湧き出ているのである。
湧水は、ここのほかにも矢原、泉水、籠目権現、長小野湧水などがあり、ここらあたりは竹田湧水群とよばれている。
左手に祖母山を見ながら、いなかののんびりとした風景をたのしみながら走る。
やがて、五ヶ所高原。
ここには三秀台という小高い丘があり、ウェストン碑が建っている。
ウェストンは、イギリスの登山家で、日本に宣教師として来日中に北アルプスを探検し、日本山岳史の黎明期におおきく貢献した。
かれが明治23年11月6日、祖母山に登ったのを記念して、碑が建てられた。
塔には、鐘がつられている。
やがてR325とぶつかり、ここから左折してR325を高千穂方面にすすむ。
道の駅・高千穂に立ち寄り、ここで昼食。
レストランは、GWを楽しむおおぜいの家族づれで満員であった。
R218を熊本方向にすすみ、馬見原(まみはら)から左折して椎葉方向にむかう。
馬見原の町並みにはいって、ふるい大きな建物が目に入った。
そこで、ここに立ち寄る。
この建物は、寄せ棟づくり、三階建て、しろしっくいの堂々とした建物である。
とくに2階の表側は、七宝つなぎの文様でかざられている。
この家は留守であったので、近所でたずねた。
いまは3階建てだが以前は4階建てで、その4階で風流な月見の宴などが開かれていたという。
さらに、ここは日向街道の宿場町であったという。
ということは、日向街道は海岸をとおる現在のR10号のルートと熊本から延岡に通じるルートがあったことになる。
ここからしばらく行って、鞍岡の先から向坂山にむかう。
向坂山には、五ヶ瀬ハイランドスキー場ができて久しい。
この向坂山から、白岩山、扇山にかけての稜線は、「向霧立越え」という優雅な峠道であった。
この峠道を馬の背に荷物をつんで、山越えして尾前、椎葉まで往来した古道である。
しかし、いまはスキー場ができて往時の景観はない。
このスキー場は、日本最南端のスキー場をうたい文句にしているが、もともと九州は雪がすくなく、したがってスキー人口もすくなく、そのうえ営業期間が限られている。
こういうハンディを克服しようとする心意気は見あげた心構えだが、経営である以上収益をあげることがもとめられる。
雪がないため、人工雪をつくるのに経費もかかる。
地域の活性化という大義名分かかげ、自然破壊もなんのその、とにかく施設をつくりたがる。
しかし、甘い需要予測と経営は素人のため、経営もたいへんだろう。
各地の第三セクターは立ち上げただけで、その大部分は経営不振、破綻、閉鎖に陥っているのが実情のようだ。
しかし、第三セクターというものは経営より、なにかをつくって税金をひきだすこと自体が目的ともとられかねない。
その過程で、うまい汁を吸うやからが暗躍する。
スキー場を降りて、これより椎葉の里にむかう。
国見峠は、トンネルができている。
以前の国見峠越えは、道路の幅員がせまくて大型車は通行禁止のめずらしい峠だった。
トンネルができてから、むかしの峠道を通ろうとする気がしない。
椎葉の里にある鶴富屋敷についた。
これは、カヤぶきの堂々たる平屋建てで、縦に4つの部屋に区切られ、各部屋の前には1間幅の前室といわれる部屋があり、その前には板張りの廊下となっている。
藤原時代の寝殿造りの様式をよく伝えているといわれ、国の重文に指定されている。
壇ノ浦の合戦でやぶれた平家は、おもいおもい各地に落ちていった。
九州に逃れたものたちは、九州山地の奥へ山奥へと落ちていった。
そして、この山ぶかい陸の孤島といわれる椎葉にかくれすんだ。
その平家の残党を掃討するため九州に派遣されたのは、那須の大八郎を総大将とする源氏の討伐隊である。
ところが、かれが椎葉の里でみたのは、人も通わぬ山奥でしずかに畑をたがやし、おだやかに生活する平家一門であった。
大八郎は、そんなかれらをどうしても討つことができない。
かれはこの地に館を構えた。
そのうち、かれは平家の残党の棟梁の姫君・鶴富姫と追う者と追われる者の立場を越えて恋におちた。
しかし、都からかれに対し帰国命令が下った。
そのとき、すでに姫はかれの子を宿していた。
泣く泣くかれは、椎葉の里をあとにする。
これが、椎葉につたわる悲恋物語である。
この悲恋物語をうたう「ひえつき節」が地元につたわる。
庭の山椒の木に鳴る鈴かけて、鈴の鳴るときゃ出ておじゃれよ
鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ、駒に水くりょと言うて出ましょ
お前平家の公達ながれ、おどま追討の那須の裔(すえ)
那須の大八鶴富おいて、椎葉出るときゃ目に涙
泣いて待つより野に出てみやれ、野には野菊の花ざかり
歌詞には「でておじゃれ」「出てみやれ」などという京ことばが織り込まれていて口ずさむと、哀調を帯びた歌詞に胸が熱くなった。
鶴富姫は、生まれた子に那須姓を名のらせた。
いまでもこの地方では、「那須」「椎葉」姓がほとんどである。
椎葉に来ると、いつも豆腐をたべるようにしている。
ここの豆腐は、かたいのが特徴である。
ところによっては荒縄でくくって手にぶらさげるという豆腐もあるそうだが、そこまでは固くはない。
この豆腐をひとくち食べると、「これが豆腐の味だ!」と子どものころ食べた豆腐の味を思い出させてくれる。
沖縄では、チャンプーといわれる炒め物はこのての固い豆腐がつかわれている。
いつもは、スーパーで買った豆腐を食べている。
たしかに、ま四角で色も白く、豆腐のなりをしている。
しかし、その豆腐には大豆本来のの味がしない。
そのうえ豆腐の材料となる大豆は、遺伝子組み換えなどいかがわしいものが多い。
そこへいくと、この豆腐は地元でつくられた大豆でこさえられている。
一丁食べただけで、腹がいっぱいになった。
ライダーハウス 「夢職庵」 オーナーのバイク日本一周記、過去記事:求菩提山