中津街道を行く |
おもな五つの街道を直轄としたので「五街道」とよばれている。
すなわち、東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥羽街道がこれである。
これらの五街道は、おもに参勤交代のためにつかわれ、物資の流通、文化の伝播に大きく貢献していった。
これらの五街道に通じる街道、延長線上にある街道を「脇街道」とよばれている。
中津街道は、福岡県北九州市から大分県中津市まで通じる脇街道である。
この街道は小倉北区からはじまり、その玄関口は中津口である。
小倉北区、小倉南区、苅田、行橋、築城までは、旧街道の面影をみつけることはできなかった。
豊前市に入り松江にて、やっと街道の面影をみつけることができた。
ここにあるJR松江駅は、むかしながらの木造の駅舎である。
旧街道は、この駅舎の前を通っている。
国道10号線を横切って、道路幅といい、家並みといい俄然(がぜん)むかしの街道らしいふんいきになった。
大きな造り酒屋があり、トタンをかぶせた藁(わら)ぶきの民家がある。
通りがかった年配のひとにきいたら、やっぱりここが旧街道筋だという。
しかも、ここは参勤交代の殿様がここらあたりで休んだので、「御腰掛(おこしかけ)」といわれていて、その茶屋跡も残っていたのだがいつの間にか朽ち落ちたという。
この近くにある「道の駅・おこしかけ」の名前が、その歴史をいまに伝えている。
その先の大阪屋橋をわたって上町に入ると、旧街道の両側に民家がつづいていて、宿場跡であることがわかる。
ここは、旧八屋宿である。
白壁の家、開口のひろい二階屋、格子、つしとよばれる中二階の民家がならんでいる。
その先の宇島(うのしま)に入ると、格子のある家、旅館、汐湯がある。
三毛門、吉富のなかにもふるいそれらしい民家が、わずかに残っていた。
福岡県と大分県の県境は一級河川の山国川で、旧街道はここで行く手をはばまれた。
ここは、「小犬丸の渡し」であった。
対岸に中津城の天守閣がのぞめる。
この渡しは武家専用の渡しであったようで、旅人などははここから上流の広津の渡しを利用したと書かれている。
現在は、ここから上流に3本橋がかかっている。
いちばん下流の橋の橋脚は赤レンガづくりで、時代を感じるりっぱなものである。
対岸は小倉口の渡し、ここは中津城の外堀で、武家屋敷がならんでいる。
城の付近を散策したら、寺町というお寺が集中して建っている通りがあった。
防衛上の理由からお寺をならべたのである。
敵軍も、お寺を攻めるのは躊躇(ちゅうちょ)しがちだからである。
そのなかに合元寺という寺があった。
豊前の豪族・宇都宮鎮房が中津城の黒田孝高によってだまし討ちにあった。
鎮房の家臣の者たちが、防戦の末ひとり残らず討ち死にしたというのがこの寺である。
そのあと、この寺の壁は赤く染まったという。
ところがいくら壁を塗り替えても、壁は血の色に染まる。
鎮房の怨念が、そうされるのだという。
そこで壁をはじめから赤色に塗ったので、「赤壁」とよばれるようになった。
帰りは、来た道を通る。
JR松江駅の先で、白壁の大きな家があった。
付近のひとにきいたら、その家は大地主で、先代は弁護士だったという。
ここらあたりは、旧松江宿である。
以前は、この街道筋に個人の銀行もあったそうだ。
旧街道はその手前で国道10号線を横切っていたが、まもなくまた国道10号線にぶつかり、そこから先はわからなくなった。
脇街道のルート・ファインディングとなると、簡単にはいかないものらしい。