的山(あづち)大島 神浦(こうのうら) |
ここには、今回の旅のメーンである神浦(こうのうら)という町がある。
この的山を「あづち」とよむのは、地名の読み方でももっとも難解なひとつであろう。
平戸で中学校の陸上の大会があったらしく、フェリーには島の中学生たちが乗っていた。
日焼けした顔がほころんで、きょうのタイム、順位などを話していた。
せまいUの字になった港をかこむように、町並みが見えてきた。
郷愁をさそう風景が、しずかにひろがっている。
「ブォー」と霧笛を鳴らしてフェリーが港に入ると、中学生を迎えにきた父兄の車が待っている。
中学生たちが、つぎつぎにその車に乗って帰っていく。
まず、町並みの外周をまわる。
こうやると、町並みの全体像をつかむことができるからである。
せまい通りが残っていて、両側は妻入りづくり、平入の厨子(つし)二階建てがならんでいる。
厨子(つし)二階建て、すなわち低い二階があるところからこの町並みは江戸後期に建てられたことがわかる。
現在のような天井の高い「本二階建て」となったのは、明治政府になってからである。
それまでは、幕府によって「本二階建て」はぜいたくだとして、武士以外は認められなかった。
この通りは、「本通り」とよばれる通りで、距離は200メートルほどである。
この通りをすぎると出口に西福寺というお寺があり、この寺の前を小路が曲がりくねっている。
街並みの建物の間口は二間半から三軒のものがほとんどで、港にすむ漁民の営みがしのばれる。
突然、うしろから
「どこか、おさがしですか?」
と声をかけられた。
振りかえると、3輪のバイクに乗った主婦である。
「ふるい町並みを求めてやってきました。」
「町並み保存の会ができており、定年になってからも教育委員会に残ってがんばっている人もいますよ。」
という。
この女性は、町並み保存に関心をもっていることがわかった。
「保存会の会長さんは大工さんで、その奥さんが役場に勤めています。教育委員会にも紹介しましょう」
といってくれた。
さっそく役場に案内された。
そこには、保存会の会長さんの奥さんが勤めていた。
彼女から、町並み保存の資料をもらう。
つぎに、教育委員会にも案内された。
教育委員会には、町並み保存のため調査をする分室ができていた。
ここで、伝統的建造物群選定に向けての準備がすすめられている。
教育委員会から嘱託されて調査をしている米村さんから、神浦の町並みについての概略と特徴ならびに取り組みの現状について説明を受けた。
かれの言うには、的山(あづち)大島は大陸に渡る遣明使、遣唐使の航海ルートに近いためこれらの船団が水の補給のため立寄る港として栄え、1661年に井元氏が神浦で興した鯨網組が盛んになり、これが神浦の発展に寄与したという。
当時の鯨漁は、小舟の船団が巨大なくじらに挑み、網をからめて槍で仕留める勇壮であるが、決死の漁であった。
それだけに、「くじら一頭とれれば七浦潤(うるお)う」といわれたものである。
当時のくじら漁は、六尺ふんどしひとつで舳先(へさき)に立ってモリを構える男たちを描いた絵などでよく知られている。
グレゴリー・ペック主演の映画「白鯨」でみるロープの先に銛(もり)のついた捕鯨砲を使うやりかたは、ずっと時代が後になってからのことである。
1821年の資料によれば、神浦の当時の世帯数は339所帯に人口は1,450だという。
ちなみに現在の世帯数は150所帯の人口は300だというから当時の半分以下である。
当時の鯨網組が、島をいかに潤(うる)おしていたかがわかるというものである。
神浦の町並みの特徴は、江戸後期の建物が32パーセントを占めている。
的山(あづち)大島には腕のいい船大工の棟梁がいて、そこから寺社を専門に建てる宮大工に分かれた一派が福岡などで活躍したという。
改めて、神浦の町並みを見てまわる。
町並みは、通りに面して両隣がくっつき空間というものはまったくない。
壁を共有しているのかと思ったが、そうではなかった。
一軒一軒が、独立の建物となっている。
これは会長の丸田さんに教わって知ったのだが、カーブのところに建っている建物は、台形をした形をしている。
つまり、表の間口は狭く、裏の間口は広くなっていてそれぞれの寸法が異なるのである。
家を建てるときには、大工さんは曲尺で墨を打って直角をだす。
ところが、ここの町並みの建物は直角、すなわり矩(かね)の手がでていない。
そのためこの町並みは、大工泣かせであったと思われる。
このような造りは、ほかでは見たことがないめずらしいものである。
さらに、もうひとつの特徴は、持送りともよばれるひさしを支える腕木が多いことであろう。
その腕木には、大工の得意の意匠が施されている。
町を歩いて行て、さきほどの市木の奥さんにあった。
昼ごはんを食べに来てくださいという。
神浦には、食堂というものがない。
旅の者には、これは困る。
市木さんのご主人は、桟橋近くで「海の駅」というアジの開きなどの加工をやっている。
そこに行くと、さっそくご主人がアジの開きを焼いてくれた。
新潟の出雲崎という町で、サバの浜焼きを食べたことを思い出す。
ここのアジの開きには、調味料はいっさい使われていない。
さらに、鯛の茶漬けをふるまわれた。
これは、うまかった。
さらに、ここでは鯨の切り身を真空パックにしてみやげ物として売っている。
ご主人は自動車整備工場を持っているが、そこをいまはふたりの息子さんにまかせて、本人は常にあらたなことにチャレンジしているという。
その最も新たなチャレンジが、このアジの開きの加工だという。
今晩、会長宅で町並み保存会の人たちの寄り合いがあるのでぜひ来てくださいという。
こちらは、町並み保存に関係したことは一度もない。
野次馬根性で全国の町並みを訪ね歩いているだけで、参考になる話もできない。
ただ、この町並みを佐賀の塩田宿の二の舞にだけにはしてもらいたくないという思いだけはつよく持っている。
夜、会長宅に行ってみると、会員が4人集まってきた。
そのうちのひとりは、町並み調査をしている分室の米村さんだった。
会員たちの話は、町並み保存にかける熱い情熱にあふれていた。
とうとう、午後11時まで話し込んでしまった。
市木の奥さんに声をかけてもらわなかったら、ご主人にも会えなかったし、役場に勤める会長の奥さんにも、教育委員会の米村さんにも会えず、さらに会長にも会えなかったであろう。
「一期一会」とはよく言われることばだが、これがまさにそれだろう。
ひとの縁(えん)の不思議さというものをつくづく感じた。
手元に「高麗キジと人情の島 長崎あづち大島」と書かれたパンフレットがある。
高麗キジこそめぐり合わなかったが、文字どおり看板に偽(いつわ)りのない土地がらである。
市木さんご夫婦をはじめ、丸田さんご夫婦、米村さんほか島のみなさんにお世話になってしまった。
何年か後、ふたたび訪れてみたい島である。