林道に挑戦 |
人吉盆地とえびの市との間にある白髪(しらが)山系の山越えをしょうというものである。
人吉側の上村から林道榎田線をたどってのぼり、温迫(ぬくみさこ)峠をこえ、狗留孫(くるそん)林道をくだり、えびの市にぬける全長30キロのルートをとる。
この林道ルートは、温迫峠からの展望がすばらしいというのがオフライダーたちのおおかたの評価である。
県道43号を通って東にすすむと、右手に白髪岳(1417m)の山塊がみえてきた。
あの山を越えるのかと思うと、はたしてどうなるものかと不安になった。
それというのも、この山塊は林道が入りくんでいるとのことだからである。
まず、林道榎田線の入口を見つけなければならない。
ちょうど、「白髪岳登山口」と書かれた大きな標識が立っていた。
ここは、上村の榎田集落。
集落の民家で、林道の入口と林道の様子をきいた。
そこのご主人は、「きのうも温迫峠まで行ってきた。林道が入りくんでいるが、上へ上へ行ったらよか」と教えてくれた。
地元のひとは、温迫峠を「ぬくみさこ峠」といわず、「おんざこ、おんざこ」と親しみをこめてよぶらしい。
このひとが、きのうも峠まで軽トラで行ったというので安心した。
集落をぬけて、いよいよ林道に入った。
途中まで舗装されていた。
ただ、上から林道を降りてくる車は一台もいない。
やがて小白髪岳への分岐の案内板をすぎると、いよいよダートになった。
ここは林道が入りくんでいるが、とにかく上へ上へとのぼればいいといわれているので、分岐では上へのルートをえらぶ。
尾根をすぎてゆるやかなくだりになると、二股になったところに展望台の標識があったのでここで休憩する。
よくみると、林道案内板の下に「温迫峠」と書かれた標識が落ちていた。
ここで記念写真をとった。
二股の間にある小高い展望台にのぼってみた。
ここに立つと、北西の方向に展望がひろがり、人吉盆地と急流・球磨川が春がすみにのなかに望めた。
とことどころ黄色に染まっている部分があり、いまは麦秋(ばくしゅう)の季節とあらためて感じた。
刈り入れ前の小麦が、よく熟(う)れている。
その刈り入れが終わると、人吉盆地はいっせいに田植えの時季を迎えるのだろう。
これから、えびの市方面にくだる。
くだりは、林のなかを走る暗い狗留孫林道である。
この林道は、枯葉がつもり、水がながれていて林道らしい林道になった。
容赦なく水たまりの水がはねて、ズボンと靴をぬらす。
やがて狗留孫神社の前を通りすぎると、これから先は狗留孫渓谷である。
しばらく、渓谷を右手に見ながらくだると柿木原という集落にでたので、ここで一息つくため休憩。
それぞれのバイクは、みごとに泥で汚れていた。
これからR221を通って小林方面に走り、市街地の手前から右折して県道1号のえびの高原牧園線をとおる。
この道路はカーブの多いルートだが、走りやすい。
何台ものマイカーが、つらなってえびの高原へむかって走っていく。
わたしたちも、この流れについてゆく。
やがてえびの高原につくと、たのしみにしていた市営の露天温泉は休業中であった。
この温泉は、夏場だけ営業するのだろう。
そういえば、石でかこまれた露天風呂は温度がぬるかったことを思い出した。
韓国岳(からくにだけ)のふもとの硫黄山の賽(さい)の河原とよばれるところは、いつもなら噴煙がもうもうと噴き出てときには道路をふさぐこともあったが、いまは噴煙はまったく出ておらず、硫黄特有の匂いもしていなかった。
噴出孔も硫黄の結晶した黄色だったのだが、いまは雨と風に晒(さら)されて白くなっている。
硫黄山の活動はおさまっており、それもいまはじまったふうでもない。
路肩にオートバイをとめて、雄大なえびの高原の空気をすう。
さすがに高原の空気はさわやかで、空はあくまでも青くすみわたっていた。
ここは標高1,200mの高原なので、木や草の芽吹きもはまだはじまっていない。
冬枯れの立ち木の幹はしろく、草原はいちめんがラクダ色に染まっている。
この高原は奈良の大台ヶ原とならんで雨の多いところとしても知られ、気象情報ではえびの高原は何ミリという降雨量がいつも報道される。
それだけ、ここは気象条件のきびしいところである。
そのなかを、韓国岳をめざしてカラフルな服装の登山者が三々五々のぼっていく。
韓国岳は、頂上からお隣の韓国まで見えるところからつけられた名前だが、もちろんこれはおおげさである。
しかし、そこから反対側をながめると、縦走路のかなたに両側に二つ石(1300)と御鉢(1186)をしたがえた高千穂峰(1575)の姿はちょうと「山」の字の形をした安定感のある秀麗そのものの形をしており、天孫降臨の伝説を生むにふさわしい神々しさがある。
その高千穂峰の頂上には、「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が立っている。
えびの高原を堪能したので、これより人吉にむかう。
これより県道30号をとおってえびの市にむかう。
このくだりの道路は、カーブの連続である。
白鳥温泉の手前のカーブで、バイクがとまっており、ライダーが腹を両手で押さえて腰かけていた。
そばにオートバイは立てているので事故でもないようだが、気になってこちらもとまった。
スタンドを出して降りたら、バイクが前に動いて倒れてミラーが折れてしまった。
そのとき、坂の下のほうから救急車のサイレンがきこえてきた。
救急車が来たのならいいやと、出発した。
R221につきあたり、すぐに左折して人吉方向にむかう。
えびのループ橋を通り、加久藤トンネルをくぐりと、こんどは人吉ループ橋だ。
先ほどのえびのループ橋は右回りだったのに、こんどは左回りである。
ループ橋は高低差を解消するために考え出された工法だが、トンネルの両側にループ橋があるということはそれだけこのあたりの地形がきゅうであることががわかる。
そのうえ、このあたりは岩盤が多く、加久藤トンネルは完成するまで何年もかかった難工事であった。
このR221と並行して走るJR肥薩線の真幸駅は、めずらしいスイッチバック駅となっている。
これは、傾斜がきついためとられた坂のぼり方式である。
やがてR219とぶつかると、きのう通ってきた湯前(ゆのまえ)をへて椎葉にむかい、九州最長の九州縦断林道をめざす。
ここで、アクシデントが起こった。
青木さんのオートバイのエンジンが、いよいよ不調になったのだ。
これ以上のツーリングは、ムリなのでリタイアするという。
どうもキャブレターに相当するものが電子制御になっていて、そこがおかしくなっているらしい。
この電子制御というのは、そこらのバイク屋でもなおせない。
調整というものができないらしく、ユニットごと交換が必要だという。
それでは、こちらは手がでない。
かれは熊本までなんとか自力走行するといって、ここでUターンした。
湯前からR446にはいり、市房ダムの横を通って、湯山峠を越えるとそこは矢立高原。
開拓のため入植した開拓民家が何軒かあり、牛舎があった。
ここには矢立キャンプ場があるが、まだ閉鎖されたままであった。
付近には、合戦原開拓という開拓村もある。
その名前から、熊本の田原坂の戦いでやぶれ、九州山地を敗走する西郷軍とこれを追う官軍との合戦の場はこのあたりのあちこちで見られるが、これもそのひとつであろうか。
R265を北にむかい、しばらくいくと飯干峠(1006)があったのでここで小休止。
ここからながめると、まわりは山また山である。
その山にかこまれたすり鉢状の谷底に、椎葉の里がみえる。
いまでこそ車の時代であるが、それ以前には椎葉は外界とは途絶された、まさに「陸の孤島」というにふさわしい。
上椎葉のガソリンスタンドで給油のさい九州縦断林道の様子をきいたら、一昨年の台風で道路が壊れ、まだ復旧していないとのことであった。
その林道は、熊本の内大臣と宮崎の椎葉をむすぶ非舗装道路、全長が38キロもあるので林道を走るひとには人気がある。
以前、ここを走ったとき、川原にテントを張ってキャンプをたのしむライダーたちがいた。
しかし、この道は生活道路でないので、復旧が遅れているのもやむをえないことだろう。
しかたがない、林道走行をあきらめ、R265を北上し、高千穂あたりで温泉をさがそう。
高千穂についたら、県道7号ぞいに「天岩戸温泉」があったので、そこに入る。
ここは村おこしのため掘られた比較的新しい温泉で、村の人たちが経営にあたっている。
ここのお湯は、黄色っぽい色をしていた。
お湯はぬるめであったので、物足りなさをかんじた。
お湯からあがって県道7号を北上し、祖母山のふもとの尾平(おひら)にむかう。
せまい県道7号は中の内林道にかわり、蛇行しながらいよいよ高度をあげていく。
それでも何軒か人家があり、こんなところでも生活しているのか、とおどろかされた。
尾平越えトンネルの入口の広場では、年配の方たちがテントを張り、テーブルで歓談していた。
トンネルをくぐると、ここから先は大分県の尾平である。
つまり、トンネルの中央が宮崎県との県境となっており、大分側の尾平は祖母山の登山口である。
尾平は、かつて鉱山でさかえた山のなかの鉱山町であった。
この町でいちばん大きな間歩は、鉱夫が千人も働いていたことから「千人間歩(まぶ)」とよばれた。
この間歩というのは、坑道のことをである。
いまは、この間歩は格子で閉鎖されている。
町には鉱山住宅が建ちならび、人口は最盛期には3,000人もいたという。
そして大浴場、映画館、床屋、郵便局、役場支所、女郎屋敷まであり、映画は博多と同時封切りだったというから、いかにここが賑やかだったかがわかるというもの。
鉱夫は諸国からの流れ者も入りこみ、凶状持ちでも鉱山に逃げこめばひとまず身の安全は保障されたという。
鉱夫たちは坑道の最先端で鉱石を掘り、おんなたちがこれを背中にかついで運び出す。
これを石臼でくだき、それを釜で炊く
いわゆる、たたら吹きといわれる精錬法である。
このとき出る煙で、梅の実は大きく実る前に落ち、山の木は立ったまま枯れた。
鉱夫は30歳で長寿のお祝いをしたという、ウソのようなほんとうの話が伝わっている。
山のなかに、「女郎墓」があった。
盛り土のうえに自然石が2つ、3つずつ置かれただけの、粗末な墓がいくつもならんでいる。
不規則にならんでいるところから、そのつど埋められたのであろう。
卒塔婆(そとば)もなければ墓石もなく、無縁仏となっていて、お参りするひとも絶えている。
結核はその当時は労咳(ろうがい)とよばれ、不治の病といわれた。
さらにこの病気は、ひとにうつるといわれて怖れられた。
この病気がひろがることを防ぐため、労咳にかかった女郎は生き埋めにされたというからむごい話である。
欧米列国にならぶため政府のとったのが、「追いつけ、追い越せ」を合ことばに殖産興行、富国強兵である。
ところが大正9年3月に起った大恐慌(きょうこう)とそれにつづく米の暴落により、農村では生活がたちゆかなくなった。
そこで農村から逃げ出すものや、自分の娘を売ってその場をしのぐものさえあらわれた。
「野麦峠」や「女工哀史」を思い出す。
苦界に身を沈めた娘たちの哀しみと恨みが、霊気となってあたりいちめんにただよっていた。
祖母登山口にテントを張って、ささやかな夕餉(ゆうげ)をたのしんだ。
ライダーハウス 「夢職庵」 オーナーのバイク日本一周記、過去記事:求菩提山