清原神事(せいばるじんじ) 2-1 |
福岡県の北東部に位置する豊前市合河地区に初夏をつげる嘯吹(うそぶき)八幡神社の春の例祭「清原神事(せいばるじんじ)」がはじまった。
この神事は、この地区の五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願する八幡さまの春の例祭である。
この神事(じんじ)がおわると、この地方では麦の刈り入れの麦秋(ばくしゅう)をむかえ、そのあとの田植えに忙しくなる。
この神事は、一昨年に1050年記念祭を迎えた。
ということは、この神事のはじまったのは平安時代というとんでもないむかしで、長い歴史と伝統をもつ。
神輿は、神幸の際に神霊がのる輿(こし)で、平安中期に怨霊信仰が盛んになるにつれてひろく用いられるようになったといわれるから、清原神事(じんじ)はお神輿の用いられる神幸の原型とでもいえよう。
いま年表をひもといてみると、朝鮮では高麗時代、中国では宗の時代、西洋では中世、オットーが神聖ローマ皇帝に即位したころである。
神輿には、京都の葵祭りに代表される輪のついた神輿を綱でひく曳山(ひきやま)と博多の山かさに代表される肩に担(かつ)ぐ神輿のふたつに分けられる。
清原神事(じんじ)は、後者の担(かつ)ぎ山である。
おなじ担(かつ)ぎ山でも、神輿を高くさしあげてゆする山が多いなかにあって、ここの神輿のちがうところは頭上高くさしあげ、その後は神輿をゆすらずさしあげたままの状態を保つところが特徴である。
この独特な作法は、保守的な土地柄だけに神輿が用いられた当初のままであろうと思われる。
それだけに神輿の担ぎ手は、身長の同じくらいの者が要求される。
すなわち背の低いものは手が届かず、それかといって身長の高い者がかつげばその者に負担がかかりすぎ、しかも神輿の位置が高くなりすぎて平均身長の者さえ手が届かなくなる。
こちらが子どもの時分の神事の行列は、鬼の面を掲げた槍を先頭に、ヒイデとよばれる神棚、つづいて傘鉾(かさぼこ)、白装束の氏子たちに担がれお神輿(みこし)、それに白馬に乗った衣冠束帯(いかんそくたい)姿の宮司さんであった。
お旅所の清原神社では、金魚すくい、風船玉、射的、綿菓子などの露店がずらりとならび、縁日のにぎわいであった。
子どもたちは露店を1軒一軒みてまわり、ようやく買い物が決まったときには手に握りしめていた小遣いの10円硬貨はぐっしりと汗をかいていた。
当時の子どもたちにとって、この神事は年間を通じて最大の楽しみであった。
しかし、この伝統ある神事も中山間地の過疎化、高齢化で神輿(みこし)の担(かつ)ぎ手が少なくなり、輪をつけたリヤカーでお神輿を引いていく時代もあった。
すたれゆく神事に危機感をいだいた氏子たちのなかには、この伝統ある神事をむかしのようなにぎわいのある神事にしたいという気持ちがあった。
その気運がだんだん盛り上がり、、お神輿をのせるリヤカーを追放し、壮年団が神輿をかつぐようになった。
それでも壮年団に属する者の絶対数が少ない。
それと神事の開催日が4月14,15日と決まっていたことが最大のネックであった。
この両日が平日の年は、担ぎ手が勤めを休めないからである。
もちろん、開催日を土日曜にできないのかという声は以前からくすぶっていた。
だが、こういうむかしからの伝統行事には面と向かって異議をとなえることを封殺するふんいきが根づよい。
開催日を変更するには、神社側のむかしからのしきたりだとして反対したが、神社の都合でなく氏子の都合に合わせるべきだとして現在のような土日曜になった経緯(けいい)がある。
むかしからこうやっていたからとか、これがしきたりだと前例を金科玉条として踏襲していくのも伝統の継承であり、たしかに一理ある。
しかし、それが合理性のないものであったり、現在の状況にあわないのであれば改めていくのも必要なことであろう。
こちらも以前は担ぎ手として参加していたが、ここ3年ほど気候のよくなったこの時期にはオートバイで旅行をしていた関係で参加していなかった。
ことしは久しぶりで参加した。
集合場所の地区の公民館に行ってみると、いつもの顔ぶれが揃っている。
ここでビールを飲んで景気をつけ、乗り合いバスで嘘吹八幡神社にむかう。
神社につくと、傘鉾がお囃子(はやし)を鳴らしながら集結する。
傘鉾は、この日のために太鼓、篠笛、チャンガラのお囃子の稽古(けいこ)がなされてきたのである。
したがって、きょうはその練習の成果をみせる晴れの舞台ともいえる。
傘鉾には太鼓が乗っていて歩きながら太鼓を打ち、これに篠笛、チャンガラがつく。
3基のお神輿は、神社の拝殿に納められている。
お神輿は一の御殿、二の御殿、三の御殿とよばれている。
お神輿の屋根には、小笠原藩の庇護(ひご)を受けたことをしめす金箔の三階菱の家紋がついていて、その上に鳳凰(ほうおう)が乗っている。
このお神輿を、それぞれの地区の青年、壮年がかつぐ。
漆(うるし)を塗った「かき棒」とよばれる担ぎ棒を、神輿の前と後ろにロープでくくりつける。
かき棒は神輿の前後左右に2本ずつあり、それぞれにふたりずつ担ぎ手がつくから神輿一基に16人は要ることになる。
氏子の担き手は、背中に神社の家紋である三つ巴(ともえ)が染め抜かれた揃いの法被(はっぴ)の白装束に鳶足袋(とびたび)が正装である。
拝殿前に整列して低頭し、宮司からお払いを受ける。
儀式を終えると、後にはいつのまにか見たこともない若者たちが増えている。
神事が土日になった関係で、都会に出ている子どもたちが神事に参加するため帰ってくるようになったのだ。
そのとき、友だちも連れてくるようになったという。
むかしのようなにぎやかな清原神事の復活だ!
原風景を求めてオートバイの旅